ずっと一緒にいられる相手探し!!

話し合っても話し合っても、うまくいかなかつた恋があった。

こちらが必死に自分の考えを話すと、彼も必死に自分の考えを話す、互いの正しさを押し付けるような未熟な恋だった。

「どうしてわかってくれないんだろう」。私はそう悩んだけれど、きっと彼も同じように悩んでいるはずだ。

思えばあのとき、わたしたちは「お互いを心底理解しよう」「価値感をひとつにしよう」としていたように思う。

正しさは人の数だけ存在するのに、お互いの全部を理解することなんてできないのに、無理やりひとつになろうとしていたんだ。

そんな恋愛を経て、今度は「価値感が合う」と強烈に感じる相手と出会うことになる。好きなものが似通っていて、相手が話すほとんどのことに共感できた。

何かを言えば「それ、思っていた」と返答があって、喧嘩をしているときでさえ相手が欲しがる言葉がわかってしまう。

これだ、わたしが出会うべきだったのは、この人だったんだ。わたしたちは、ふたりでひとつだ。そう舞い上がったものだった。

けれど彼が最も近い人から、最も遠い人へと変わるのも早かった。

似ていると思えば思うほど、ひとつの違う部分が許せなくなった。「どうしてそんな風に考えるの?」と思って、違和感が払えなくなる。

似ていると信じたかったから、真剣な話し合いでぶつかって、幻滅するのが怖かった。

その結果、わたしたちは違和感に目をつぶり続けた。やがて、小さな綻びが大きなズレとなって、夢から醒めるように静かに恋を終えたのだった。

どちらの恋愛も、異なるように見えて同じだった。「ひとつになろう」「ひとつであろう」とし過ぎたのだ。

そしてどちらの恋愛も、後に残ったのはひどい孤独であった。誰ともひとつになれない孤独感。何かが欠けているような不足感。

今ならわかる。「価値感をひとつにしよう」とか「価値感が合う人を探す」とか、そんなことぜんぜん必要なかったのだ。

ふたりは、ひとつにはなれない。ふたりはふたりのままで、寄り添って生きていくものだから。

違う人同士で、そのまま一緒に在ること。

そのために必要なのは、言葉にすること、距離を保つこと、そして少しの勇気を持つことじゃないだろうか。

自分の気持ちをいちいち言葉にするのは、ものすごく疲れる。そもそも上手く話せないし、一生懸命に言葉を尽くしても言いたいことの半分もうまく伝えられない。

それどころか相手に誤解を与えてしまうことだってある。

でも自分のことをスラスラと話せる人なんてどのくらいいるのだろうか。

喧嘩になりたくない、険悪になりたくない、と真剣な話し合いを避け続けて、本当に仲良しでいられるのだろうか。

モヤモヤと輪郭を持たない気持ちを必死にたぐりよせ、たどたどしく言葉をつなげながら相手に話す。そして、相手の話も同じようにしっかりと聞く。

「話す」「聞く」。当たり前に思えて、とても難しいこのふたつ。けれど、それさえできれば(あるいは、そうしたいと願っていれば)、価値観が遠いふたりでも、そばにいられる。

それから、距離を保つこと。

すり合わせたり歩み寄ったりするだけでなく、時には「わたしたちは違うね」と差異をそのままにしておくことも、他人と暮らしていくうえでは必要になってくるのだろう。

好きなものや趣味、時間の使い方は、同じじゃなくていい。人には人のパーソナルスペースがあって、相手を傷つけたり不快にさせたりしないのであれば、踏み込まずにそっとしておく。

そして最後に、ほんの少しの勇気を持つことだ。自分をさらけ出す勇気。相手を受け止める勇気。そして分からない部分を、そのままにしておく勇気。

誰かと共に生きることは、簡単じゃない。面倒くさいんだ。骨が折れるんだ。でも、努力するしかない。

この世にピタリと合う人なんておらず、せいぜい「そばにいるために努力し合える相手」がいるだけである。けれど、だからこの努力のことを愛と呼ぶんじゃないだろうか。

価値観が合う人がいいなんて、怠惰な願いだった。

価値観が合う人を探すなんて、無意味だった。

そんなことよりも「この人を大事にしたい」「この人となら努力し合える」と思う、その気持ちの芽生えを見逃さず、大切に育んでいけばいい。

近道はないから、丁寧に、一歩ずつ。

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